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皆川 眞澄  【マニュフェスト】

 

【プロローグ】

 

幼いころからの夢であったミュージカル俳優。

当時隆盛を極めていた東京キッドブラザースに入団し、東京で演劇活動を始めた。

2年後フリーになり、様々な舞台、主にミュージカルに出演していた。

 

ミュージカルならば、ダンスができ、歌が唄えるのは当然のことである。

しかし観客は、その技術の上手さを観にくるのではない。

観客は、舞台上で演じられるストーリーの中で、人間の「真実の姿」を観たいのである。

観客が感動するのは、常に「人間の真実の姿」に他ならないのであると思う。

様々な舞台に出演する中で、

「なぜ海外と日本の演技は、こんなにも差があるのだろう?」

海外の映画を観ても毎回それを強く感じた。

そしてこの疑問は大きく膨らんでいった。

演じているのではなく、「その人物そのものがそこに居る」

キストラまでもがその場にちゃんと役として存在している。

だから映画のクオリティーが非常に高く、知らぬ間に引き込まれてしまう。

 

日本では、なぜそのような演技に滅多に出合えないのだろう?

この演技はどこからやって来るのだろう!?

 

外では、俳優が「俳優のための訓練」をするのは当たり前のことである。

俳優のみならず、それはどの職業においても、必要なスキルを磨くことは当然のことである。

しかし、俳優だけは感性勝負という例外なのが、日本の現状なのだと思う。

日本では俳優の訓練は、ステイタスではない。

なんだか“カッコ悪いもの”としての風潮は、残念ながら今現在もあると思う。

 

多くの劇団があり養成所があるが、演技の「根本的な真理」を教えているところは本当に少ない。

そこでは台詞をいかにしゃべるかとか、きっかけをいかにつかむかは知っていても、

肝心なことになると曖昧なルールを持ち出すだけで、後は役者の感性に委ねられてしまう。

 

結局ミュージカルならば、歌と踊りのレッスンに重点がおかれ、演技は二の次になってしまう。

指導する側も役者の感性に頼らざる得ないところがある。

それは、「何を、どうやって引き出したら良いのか」の演技の真理が曖昧だからに他ならない。

 

役者はその振りをするだけで、自分自身の「真の感情」に触れていないために、

うそ臭いおざなりな演技になってしまう。

役者は観客のイマジネーションがいい事に、かなり助けられていると思う。

演劇のみならず、あらゆる表現活動における「真理に目覚めること」で、

表現力が増すだけでなく、豊かに生きることができるのである。

 

「真理に目覚める」とは、その原理原則を知ることである。

 

その原理原則に則った表現をするためには、

『〈自己認識〉が如何に重要であるか』に自ずと気づくこととなる。

 

表現にも〈深さ〉がある。

 

赤ちゃんは泣くことによって自分を表現する。

人間は生まれながらに〈表現する生き物〉である。

 

自分が表現の媒体でありツールなのだ。

自分自身を知らずしては、何をどうすることもできない。

『表現とは全人格をもって成されるもの』であるのだから。

 

自分を知り、表現の媒体である、自身の楽器を練る。

それは同時に自分という存在を「全人格的に成長させること」に繋がる。

つまり、すべての仕事に、人生に、影響を与える事ができるのである。

 

〔私の演技のルーツ〕

 

演劇(総合的演技表現学の広義を含む)というものの持つ重要性を

私はメソッドアクティングから学んだ。

それは究極の人間学だと言い切れる。

演劇という同人的な世界が希求し止まないのもそうであるが、

NY・ザ・アクターズスタジオはその広義のダイナミズムにおいて頂点に位置するものである。

 

ロシアのスタニスラフスキーシステムをベースに、演技術や演出法を発展させ、

明確なメソッドとして確立したマイケル・チェーホフ。

独自の視点を加え、更なる発展と実践を試みたNY・ザ・アクターズスタジオの創始者

リー・ストラスバーグ。

私が学んだメソッドアクティングは、このNY・ザ・アクターズスタジオの本流を汲むメソッドである。

 

ストラスバーグにピタリと寄り添い、アクティングの真髄を直伝された師ゼン・ヒラノ。

スタジオ始まって以来、教師になりたくて入門したという人物である。

しかも東洋人では、当時唯一の正会員。

今をときめかす世界的有名俳優でさえ、数回のオーディションは当たり前のところ、

一度でパスしたという伝説の持ち主である。

スタジオは常に門が開かれており、会員であれば有名無名を問わず、何時でも学ぶ事ができる。

デビューを果たし一躍スターになったモンローが、自分の殻やイメージを打ち破りたくて入門し、スタジオで学んでいた時期に目覚しい成長と変貌を遂げた話は有名である。

TVのアクターズスタジオインタビューを観ても分る様に、世界的に有名な俳優達のほとんどはここから輩出された。

それくらい俳優の登竜門として有名かつ重要な場所なのだ。

 

そのアクターズスタジオの目指す演技とは?

 

【ザ・アクターズスタジオ / メソッドアクティングの目指すもの】

 

あらゆる芸術活動において最も重要なことは、「魂を開放する」ことだ。

表現力の源泉は、あなたの中にある「感情の王国」である。

その感情の王国の中にある、様々な感情を創造のプロセスに加担してもらうためには、

魂が解放されていなければならない。

Open up」こそが、自由自在な表現を可能にする。

 

それは俳優として、「どんな感情の動きも即表れてしまうような繊細な身体を作ること」

 

体、表情、爪の先、髪の毛一本に至るまで、感じていることが繊細に表れる楽器を意味する。

感受性を極限まで高めていくのである。

 

そして「役への深い理解と共感」によってそれは成就される。

 

そこではおざなりでない、自分の〈真実の感情〉が表現されなければならない。

 

心も体も緊張した状態では、真実の感情にアクセスする事は難しい。

メソッドアクティング独特のリラックス法と気功術を用い、型にはまった日常の身体から、

アーティスティックな身体に変容させていく。

微妙な心の変化も直ぐ、声に体に表れてしまうような不用意な状態に身を置き、

心と体を開放していく。

開放された魂からは様々な自分が現れる。

 

それは今まで一度も出会った事が無い自分かもしれない。

一番見たくない自分かもしれない。

残虐であったり、冷酷であったり、暴力的であったり、、、、

日常で抑圧されてきた、知ることの無かった自分と出会う。

戸惑い否定し暴れる、、、しかしそれも紛れも無い自分自身なのだ。

 

気に入らない人の事を“死ねばいい”と平気で思うのも人間だ。

自我を持つ人間にとって、「自分とは異質な物」それを排除したいと思うのが、

人間のサガだ。

なぜなら人間とは〈動物本能〉と進化した脳による〈理性〉

の両輪で成り立っている生き物だからである。(人と動物の間が人間)

 

私の中には、私自信に認めてほしいありとあらゆる感情が存在する。

全ての人の中に、生まれながらに「すべての感情」がフル装備されている。

あなたの中にもわたしの中にも同じ感情のエレメントがある。

それらが多いか少ないか・分化されているか未分化か・の違いだけだ。

感情は常にニュートラルなものであるのに、

あなたの観念が、勝手に「歓迎しない感情」と意味づけているに過ぎないのである。

それが多かろうが少なかろうが、否定しようがしまいが、隠そうが押し込もうが、

紛れもなく私の中にあるのだ。

ヒトラーの暴君性もナポレオンの英雄性も・・・・・

自分の中にあるものを徹底的に観て行く。

知り尽くし味わい尽くす。

たとえそれが、どんなものであろうとも。

それを観ないで、先に進むことはできない。

自分を本当に知ることは出来ない。

自分がわからないとは、常に自分自身を否定し続けているということなのである。

ただ〈自分を知りたい〉という勇気を持つこと。それがそこへ運んでくれる。

 

自分を知った分だけ他人のことがわかる。

そして、相手の身になって考えることができる。

これは俳優にとってはなくてはならないことである。況や俳優でなくても、、、

 

どんな役であろうと、我ことのように共感できなければ演じることはできない。

自分とかけ離れたような存在であっても、同じ人間なのだ。

その人物をその人足らしめている軸となるものを捜し、自分の内面を探っていく。

 

表現するのは私なのだ。

私の心と体を、この楽器を使って表現するのだ。

だから自分から出発しなければ嘘だ。

 

時にそれは自分の中ではガラスのかけらほどしか見つけられないかもしれない。

だが、必ずそれは、わたしの中にもある。

様々な角度からアプローチを試みて役に近づいていく。(方法はメソッドの中にある)

かけらほどのものをどんどん膨らめていく。

 

人を殺したことがないからこの役はできないといっていたら、どの役もできないのと同じだ。

どんな人間にもその正当性は必ずあるのだ。

殺人者は殺人者なりの正当な理由があるのだ。

そこに限りなく共感していく。一人の人間として深く同情するまでに。

自分と一体化するまでに。

 

往年の大女優エレノア・デゥ-ザは、

子供を失くした知人が、その悲しみを切々とデゥ-ザに訴えた。

その時デゥ-ザは当の母親より深く深く悲しんだ。

そのあまりにも深い悲しみに、逆に母親のほうが癒されてしまった・ということだ。

他人のことを我が事のように、いやそれ以上に感じることができることこそ

最も重要なことなのだ。

 

・人の喜びや悲しみを我が事のように感じる事ができること。

・あらゆる感情をあるがままに表現することによって、本当の自分自身を知ること。

・人との関わり合いの中でこそ、自分が成長できる事を知ること。

・自分独自の発想や考えを大切にし、創造性を養うこと。

 

目指すは 『荒削りでタッチングな演技』

 

それは、作為に依らず、真実にアクションすることだ。

 

これは人生でも、本来人が目指すべき、目指したい生き方ではないだろうか?

 

 【アクティングの訓練は人間形成そのものだ】

 

 天から与えられた才能、素質を延ばし、自由な表現を邪魔する内面的問題を解決していく。

それは失敗に対する恐れや萎縮、屈折した感情やブロック、トラウマ、魂の癖等が

表現活動への足かせになる。

 

アクティングの訓練を通して、技術の習得と同時に、個々の内面的問題も解決していく。

 

それはあたかもパンドラの箱を開けるような作業かもしれない。

しかし、抑圧された感情を開放し表現することにより、その傷は癒されていく。

自分の行動の原因が明確になり、洞察力が高まる。

本来の自分自身に目覚める事で、自分が何を望んでいるかが明確になる。

自分を知ることにより自信がわき、自分を信頼できるようになる。

自分を信頼できる人は、常にベストを尽くそうと努力する。

ベストを尽くす事で更に才能が磨かれ、次のステージが見えてくる。

こうして人生は生き生きと、自分を高みへと連れて行ってくれる。

 

【どんな仕事であれ、それは自分自身の表現と成長の場である。】

 

今や教育の現場では、以上を蔑ろにした別の方向に進んでしまったための弊害が、

社会現象となって表面化している。

このメソッドを通じて、輝きを、自由を、生き生きとした自分を取り戻してほしいのだ。

本来のあなた自身の魂を前面に出して、悠然と闊歩して欲しいのだ。

 

仕事とは、自分自身の表現の場であり、

仕事を通じて社会に奉仕し、人として成長していくのであると思う。

だからその道に終わりは無い。それは果てしない物語。

 

今や私はその切欠を与える術を知っている。

私がかつてそうだったように、、、そして生きる意味を取り戻したように、、、

知ってほしい

自分とは?生きるとは?なんであるのかの命題を捜す旅があるということを・・・

 

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